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自己紹介

こんにちは!
みさきです。

本日は、私のブログにお越しいただき、ありがとうございます。

私は、退職しても再雇用で教育の現場で働く気満々だった、元小学校教員です。

現在は、全くの異業種であるインスタ運用代行やオンライン秘書として
お仕事をいただき、家で働いています。

教員になれば一生安泰。
女性も退職まで働く方が多い職業ですので

「教員から?えっ?どうして?」と思われる方も多いと思います。

そこで、今回は、そのきっかけと背景について、
私の自己紹介を含めてお話させていただきます。

基本情報

名前:みさき
性別:女
年代:40代
職業:小学校教員(17年)▶︎インスタ運用サポート、オンライン秘書
好きなこと:お笑いを見る、漫画を読む、時々シーリングスタンプ作り
好きな色:黒、白、ベージュ
推し:SnowMan
住みたい場所:窓から海が見える、海沿いの家
苦手なもの:暑さ、寒さ、虫
大切なもの:家族、わんこ🐶🐶

のびのびと自由に過ごす

1歳になり、保育園に通った私は、
「楽しくない」という理由で勝手に帰ってしまうような子どもだったそうです。

今なら大問題になりそうなことですが

保育園から家に帰る途中には、たくさんのご近所さんが
「あら、もう保育園終わったの?」
「帰るの早いねぇ」と、笑顔で声をかけてくれる

そんなほのぼのした田舎の環境で、のびのびと育ちました。

入園1年後、そんな私に、一人だけ友だち(Aちゃん)ができたのです。
「二人そろうとうるさい〜!」と言われるぐらい笑。

おかげで私は、自主的に帰宅することはなく
楽しく保育園に行けるようになりました。

Aちゃんは私にとって、唯一「親友」と呼べる存在でした。

将来の夢が決まる

先生になりたいと思ったきっかけは「いじめ」

2年生の頃、転校生が一人きた以外、
保育園のことからずっと変わらないメンバー。

4年生で初めて、クラスの雰囲気が大きく変わりました。

・突然、クラスを飛び出してしまう子がいる
・男女は口を聞かない
・男子同士のケンカが絶えない
・担任の先生以外に、必ず見守りの先生がいる

私も授業中、堂々と漫画を読んでいました。

そんな中、女子の間でいじめが流行りました。
ターゲットがどんどん変わり、無視をしたりされたり…
私もその流れにのってしまったのです。

そしてある日、Aちゃんがターゲットに。

「Aちゃんをいじめないでほしい」
「助けたいけど、どうしていいのかわからない」
「誰かに相談したいけどチクるなって言われたし…」

一人で悶々と悩む日々が続いたある日、母がお風呂で発見。
私は、円形脱毛症になっていました。

円形脱毛症がどんなものなのか、よくわからないながらも
驚いている母の様子から、普通のことではなさそうと感じ、
正直に、一言一言、母に打ち明けました。

母が先生に連絡し、学校で対応がスタート。

詳しくは覚えていないのですが、
私の母が先生に電話したことはわからないよう、みんなに上手に伝えてくれて
ホッとしたのを覚えています。

先生が、一人一人個別で聞き取り。
「本当は嫌だった」と、先生に伝えた時、涙が出ました。

その後、先生方や各家庭での対応もあったようで、いじめは収束。

でも、私は
「なんであんなことしちゃったんだろう…」
「ただ楽しく過ごしたかっただけなのに…」
と、Aちゃんを助けられなかったことを、一人ずっと悔やんでいました。

ちょうどこの頃、将来の夢を考える授業があり

「もっと学校が楽しい場所だったらいいのに」
「もっとみんなの居場所みたいなクラスだったらいいのに」

と思っていた私は

迷わず「小学校の先生」と書きました。
先生になってその想いを叶えよう、そう決めたのです。

人生初、頑張る楽しさを知る

6年生になり、自主学習がスタート。

  • 自分で課題を決めて取り組む
  • 計画を立てるのも楽しい
  • ノートの数が増えるのも、先生がハンコや一言くれるのも嬉しい

毎日継続して、1年間でノートは30冊以上にもなりました。

言葉数は多くないけれど、いつもあたたかく見守ってくれる、
そんな先生のあたたかい雰囲気のおかげもあり
自然と頑張れるようになっていきました。

自主学習以外にも、

  • ミニバスに打ち込み上達
  • 授業中、自分から手を挙げる
  • 成績は体育以外5
    (5年生の時は、図工は5でしたが他はほぼ3)

全てがうまくいったわけではありませんが、

「頑張るって楽しい」
「一生懸命にやればこんなにできるようになるんだ!」
と、人生で初めて感じることができた年。

卒業を前にして書いた将来の夢は、変わらず「小学校の先生」でした。

嫌いな言葉は「努力」

ミニバスが大好きだった私はバスケ部に入り、毎日、打ち込み
先輩方と同じメニューもやらせてもらえるようにもなっていきました。

完全に、バスケ中心の生活で、部活がない日も自主的に練習。
(もちろん愛読書はスラムダンク)
小学校の先生になったら、バスケも教えたい!と、夢も膨らんでいました。

半年ほど経った頃、膝が痛み出したのです。
痛みはだんだんと強くなり、夜も眠れないほどになり、病院で検査を受けることに。

膝の怪我が見つかったのです。
「今、このままやっていたら将来、歩けなくなるかもしれない」

もうバスケができない…頭が真っ白になり、涙が止まりませんでした。

みんなが上手くなっていく姿を見るたびにどんどん落ち込み、
他の部活に入ることも考えたのですが、
大好きなバスケを諦めきれずマネージャーになる選択をしました。

みんなを応援し支えながらも落ち込む毎日。
加えて、中学3年生の時、起立性調節障害になり朝起きるのも辛い…。
バスケも頑張れない、みんなと同じようにできない…。

 

受験も控えている私たちに、担任の先生が毎日のように
「努力」の大切さを話してくれたのですが

頑張れない私は、気づけば
「努力」という言葉が大嫌いになっていました。

それでも、進路について考えると、思い出すのは
先生になりたいと思った過去の自分。

私は、進学校に進むことを選択しました。

口癖は「私なんて」

無事合格したものの、馴染めず、勉強してもそこまで成績も上がらず
とりあえず通うだけの高校生活を過ごしていました。

進路希望を書く紙を、名前だけ書いて提出。
先生に呼び出されました。

先生「どうして何も書いてないの?」

私「別にやりたいことなんてない。私なんて」
と言ったところで

先生「”私なんて”と言ってはいけない!もう二度と言っちゃいけない!自分をもっと大事にしなさい💢」

そして、なぜか
「先生と書いておきなさい」と言われました。

渋る私。
「いいから書いておきなさい!」と言う先生笑

書いたかどうかは覚えていませんが
「私なんて」と言うのは、やめてみようかなと思い、
少しだけ前向きになれた気がしました。

 

そして、専門学校か短大に行こうと思っていた高校3年生の秋、
「大学に行ってはどうか?」と先生に提案され

ここで思い出したのも、やっぱり
「先生になりたい」でした。

将来を考えると思い出すのは、小学校4年生の時の想い。
そして小学校6年生の時の頑張っていた自分。

家族も自分も大学に行くと思っていなかったけれど
「もう一度頑張ってみようかな…」
そう思い、受験勉強をスタート。

「小学校の先生」「幼稚園の先生」の免許が取得できる大学に
無事、合格したのです。

田舎から都会へ

頑張れないままの自分

実家を離れ、大学に進学。

嬉しい気持ちとは裏腹に

  • 朝は起きれない
  • 課題はギリギリで提出

次第に、モヤモヤが大きくなっていきました。

「私は何がしたいんだろう…」
「なんのために大学に入ったんだろう…」

4年生の時と6年生の時の担任に手紙を書き相談しました。
(二人は結婚していたのです。)

すぐに返事が来ました。

あの時、本当によく頑張っていたね。

今、もし頑張れないと思っているなら、
それは次に頑張るまでの休憩時間。

あんなに頑張れたんだから、きっとまた頑張れるよ。大丈夫!

そう書かれていました。

涙が溢れました。
私だってできる!あんなに頑張れたんだから、また頑張れるはず!!

自然と一生懸命になれた教育実習

普段の授業は相変わらずでしたが、
幼稚園実習2回、小学校教育実習1回は自分でも驚くぐらい頑張れました。

幼稚園実習、初日は遅刻…

「人として間違っている!こんな実習生は初めて」と叱られたけれど
毎日、早起きしてお弁当を作り、実習ノートも何枚もびっしり書きました。

ピアノは弾けないけれど、その分、
ペープサートや塗り絵を作り、子どもたちに楽しんでもらえるように工夫。

初日はものすごく怒っていた園長先生でしたが、
「全体を見る力がある」そう褒めてくださり、素直にものすごく嬉しくて
頑張ってよかった、私にも誰かの役に立てることがあるのかも
そう思えました。

教員への道を選択

周りのみんなは就活、教員採用試験の勉強を進める中
私は焦ることはなく、のんびり構えていました笑

幼稚園の先生か小学校の先生か…どっちに進もうか悩んだぐらいで、
やはり他の選択肢は思い浮かびません。

最終的な決め手は、小学校4年生の時の
「先生になりたい」という想い。

自分に何ができるのか?向いているのか?どんな生活になるのか?
そんなことは全く考えず、先生になる道を選択したのです。

思っていたのと違う…教員時代の始まり

実際に先生になってみると、想像と現実は全く違いました。

あれ?いつの間にか仕事が山積み…
丸つけ、ノートのコメント、週案、初任者研修の提出物、授業案の作成、学年だよりの作成、授業準備、加えて初任者研修…終わらない…

こんなにもやることがいっぱいなの…!?
思ってたのと違う…

週末まとめてやろう!と思っても起きれない。
やっと起きて出勤するも、終わらない…

新しい挑戦の連続で、がむしゃらに走り続けました。

先生方、保護者の皆様に見守られながら、なんとかやり切った一年でしたが、
大学の時から得意な教科や分野を研究し
教員になってからも研究し続けているて方が多いのに対し、

私が大学時代専攻していたのは「臨床心理」。
教科の研究はしてこなかったのです。

尊敬する大先輩に

3年目ぐらいまでに、自分はこれ!という教科を一つ見つけておくといいよ。
自信もつくし、軸ができるから学級経営も授業も上手になっていくよ。

そうアドバイスいただきました。

「私には何が向いているんだろう?何を極めたいんだろう?」
「もっと教員としてのスキルを身につけたいけど…」

どうしていいのか全くわからないまま、
2年目を迎えることになりました。

そしてその頃、勤めていた学校が3年後に行われる
「社会科の全国大会(※)」の開催校に、決定したのです。

※全国大会は、年に一度、全国の先生方に向けて授業を公開し、研究の結果を報告し合う場

全国大会に向けて研究に明け暮れる

3年後の全国大会に向けて、職員全員、そして他校の先生方のお力もお借りして
準備をしていきました。

クラス作り、話し合いの仕方、ノート指導、発問、題材、授業の流れ、時間配分、資料、資料提示のタイミング、子どもの意見の活かし方、全員参加、手が止まっている子への支援の仕方…

様々な視点で、研究を重ね
大学の先生をお招きして、ご指導いただくことも何度もありました。

実は、社会科は大の苦手。社会科もゼロからの学びです。
初めは、何を聞いても「ポカーン」。
意見を求められても、全く言葉が出ませんでした。

そして3年目の時、研究主任であり学年主任だった先生に言われたことは

初めてなのは、子どもにも保護者にも関係ない。

プロ意識をもっともちなさい!

世の中の同年代の人が、社会でどんなポジションで動いているか?
意識して動いて

でした。

ハッとしました。

今の自分ではスキルどうこういう前に、意識が低過ぎる。

このままでは、子どもたちが楽しいと思えるような
授業にもクラスにもできない。

今から頑張るしかない!!

そこからは、他の先生方の授業もたくさん見せていただき、
「こんな授業がしたい!」「こんなクラスを作りたい!」という気持ちや目標が
どんどん高くなっていきました。

とにかく授業力、学級経営力を上げて、
子どもたちがキラキラした目で真剣に学べるように
できることは全てやろう!と、仕事中心の毎日を送りました。

自分自身も、授業もたくさん見ていただき
授業を公開した回数は、同期の中でもトップには入っていたと思います。

毎回、いろいろなフィードバックをいただいたおかげで、(もちろん辛口です)
少しずつ少しずつ私自身も意見を持ち、言えるようになり、
私と子どもたちで、一緒に授業を作ることができるようになりました。

全国大会当日は、教室に入りきらないほど
たくさんの先生方に授業を見ていただきました。

授業後にはご質問やご意見もいただき、迷うことなく自分の意見が言えたのです。

大学生の時、小学校の担任からもらった手紙を思い出しました。
「やっぱりまた頑張れた!」
「頑張れない時期も大事な時間だったのかもしれない」

人生で2回目の本気で頑張ることを楽しめた時期。

誰も置いていかない、そんなクラスと授業を目指し、
子どもたちがイキイキと学び、成長していく過程が
私にとっての喜びでした。

楽しみにしていた育休明け

7年目で異動、結婚、妊娠。
育休に入りました。

早く復帰して働きたかった私は、育休明けが嬉しくて、すぐに仕事に邁進。

慣れるまでは、クタクタになることもあったけれど
仕事が楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。

先生方と授業や学級経営について議論したり
今後、どうなっていきたいか?語り合ったりして、充実感も感じていました。

全力で走り続けた結果、体が出したSOS

年齢を重ねるにつれて、たくさんの仕事を任せてもらえるように。
復帰した翌年には学年主任。初任者の指導、重要な部会の主任…
教員としてのキャリアを一つ一つ築いていきました。

キャリアアップできる喜びもあり、初めてのポジションでも
精一杯頑張ろう!そう思って引き受けていました。

でも、一つ一つの責任が重く、どんどん家に帰る時間が遅くなっていったのです。

  • これぐらいじゃ休めない…
  • 休んだら仕事が溜まってしまう…
  • やるしかない…

この頃、家族が揃う時間は土日でも数時間。
娘を育ててくれたのは義母と言ってもいいぐらい、忙しく働いていました。

円形脱毛症、帯状疱疹、腹膜炎で入院…でも、回復するといつも通り仕事へ。
今思えば、体からのSOS。

それさえも無視して、「大丈夫です!」と言い、働き続けていました。

そんな働き方をして5年目、ついに限界が来ました。
熱中症をきっかけに、倒れてしまったのです。

治療を通して、新しい世界を知る

体の機能がうまく働かなくなりました。

  • ホルモンの各数値が低い
  • 体温も低くて真夏なのに寒い
  • 薬もうまく効かず回復しない

寝るというより、意識を失う感覚で
何度もこのままでは死んでしまうと思いました。

でも、目が開いている時間に考えることは、
「とにかく早く元気になって復帰しなければ」でした。

回復するためにできることはなんでもしようと決めて情報を探し、
鍼治療、温熱治療など様々な治療を受け、東洋医学、栄養学も学びました。

すぐに効果が出るわけではなく、地道な治療で何度も心が折れかけましたが、
先生方が、私の世界を広げてくれました。

鍼治療の先生も温熱治療の先生も東洋医学の先生も、女性。

皆さん、ご自宅やご自身の仕事場で私の治療をしてくれたのですが、
小さなお子さんを見ながら私の治療をしてくれた先生もいらっしゃいました。

情熱があって、自分のスキルで、自分の選んだ場所で、
つながりを大切に、感謝されながら収入を得ている…。

驚きでした。

今までの私が全く知らなかった生き方、働き方。
そして、どの先生も知識もスキルも自信もあって魅力的に見えました。

いろんなことができないといけない、お願いされたことは苦手でも全部やり切るべき、仕事優先が普通だと思っていたけれど、それは違うのかもしれない。

もしかすると、1つのスキルを極めていくことができれば、
自分が選んだ場所で、自分に合った働き方はできるのかもしれない。
そう思いました。

先生方は女性としてもかっこいい。
一つのことを極めているし、こんな働き方ができたら…と
思ったけれど

教員しか考えてこなかった私は、
教員に戻る自分しかイメージができませんでした。

回復して復帰、でも思った以上に体は正直だった

半年以上かけてやっと回復した私は、
流石に今までの働き方はできないとわかっていたので
重いポジションは避けられるように、臨任という立場で復帰しました。

ただ、そうは言っても子どもたちにとっては何にも変わりません。
職員であることも変わりません。

育休明けの時とは違い、体力もかなり落ちていて、
家に帰るとぐったりしてしまっていました。

そして7月の暑い日、冷房の効きが悪い中授業をし、
子どもたちが帰った途端、動けなくなりました。

再び熱中症になってしまったのです。

保健室で休ませてもらった数時間後、なんとか家に帰ったものの
そこから、また点滴の日々へ。

愕然としました。
点滴を受けながら天井を見つめ、
やっと回復したのに…こんなに頑張ってきたのに…

でも、このままでは、イキイキと働ける未来がどんどん遠ざかってしまうと感じました。

そして、

もっと自分を大切にしながら生きたい。
一旦、仕事を辞めて、本当に体を大事にしよう。

そう思い、先生を辞める決意をしました。

新たな働き方に希望を見つける

先生を辞めた後、しばらくは体を第一に過ごしました。

自分のことを大切にしたいと思いながら、頭に浮かぶのは後悔の気持ち。
「一生教員をしていくと思っていたのに」
「こんなはずじゃなかった」

何もできなくなった私の代わりに義母と旦那さんが
家のこと、娘のことを
やってくれていることへの感謝と同時に感じる負い目。

家の近くで働く…?
パートで外に働きに出たら、また体を壊してしまいそう。

派遣でできそうなことをやってみる?
電車に乗って出勤するのは、もっと無理。

1日だけの単発で働いてみる?
体力的にキツイ環境だったら、耐えられないかもしれない…。

考えても考えても、外に働きに出る選択はできない。

ポイ活をしたり、不要なものを売ったりと、できそうなことは試したけれど
他に何ができるのか分からない。

でも、働くことは諦めきれない。

「私は本当は何がしたいのか?」
「どんな人生を送りたいのか?」
しっかりと向き合いたいと思うようになりました。

少しずつ回復に向かう中で、微かな希望を胸にネットで検索を始めました。
そのタイミングで、ネットの広告に流れてきたのは

  • 会社で働いていたけれど倒れてしまい、退職
  • 旅をしながら、コーチングを仕事に新しい働き方を叶えている女性

でした。

倒れてしまった過去があるようには全く見えないぐらい
素敵な笑顔と自由な生き方。

それを知った時、希望が見えた気がしました。

しかも、社長は世界中を旅していて
カリキュラムは全てオンラインで完結。

さらに、シンプルなコーチングのメソッドにも惹かれ
自分の心と向き合うために講座の受講を決めたのです。

講座が始まってからはオンラインでコーチングを受けたり、
使える時間は全て使い、企画には全出席し、動画も繰り返し視聴。
日々学びながら、自分の心と向き合い続けました。

そこで気づいたのは

無理して頑張り続けるのではなく、
私も自分のスキルで、自分に合った働き方をしたい。

無茶ではなく、自分のことも大事にしながら
誰かの役に立ち、やりがいや喜びをまた感じたい。

そんなふうに思うのはワガママじゃない?と蓋をしていた
私の本音でした。

辛い治療中も泣いたことがなかったけれど、
諦めたくない!!と心から素直になれた時、涙が溢れました。

そして、その気持ちに気づいた頃、社長から
「お仕事、やってみない?」と声をかけていただいたのです。

自分にできることならなんでもやってみようと思い、
「嬉しいです!!よろしくお願いします!!」と、すぐに返事をしました。

こうして私は
「家にいてオンラインで仕事をする」という、働き方への一歩を踏み出したのです。

「自分に合う仕事はある」「働き方は自分で選べる」その可能性に、
また誰かに喜んでもらえる仕事ができるかもしれない!
ドキドキが止まりませんでした。

在宅ワークへ挑戦、バランスのとれた働き方へ

現在、私の職場は家です。
出勤なし、暑さにも寒さにも耐えなくていい環境で働いています。

自分の体を労ることも、
子どもの熱や急な予定変更にも罪悪感なく対応できます。

仕事内容は、インスタ運用代行がメインで、
オンライン秘書としてもご依頼をいただいています。

仕事の内容も働き方も、教員時代とは全く違いますが、
少しずつスキルを身につけ、ステップアップを叶えている最中です。

教員経験しかない、倒れて限界を迎えた私でもキャリアチェンジに挑戦できている
理由は、3つあると考えています。

  1. すでにキャリアチェンジを叶えている方々が在籍するスクールを選んで入会
  2. そのスクールで正しく学び、正しく行動
  3. 自分と向き合い、心も体も整え、無茶ではない頑張りを継続

そして、退職から試行錯誤した時期を経て、やっと今、自分を大切にすることとやりがいや頑張りのバランスがとれてきたように思います。

在宅ワークで新たなキャリアを築く

今の私の目標は

  • やりがいを感じながらイキイキと働き、クライアントの成果に貢献すること
  • 私といえばこれ!と、より明確に言えるような実績を作ること

そして、その先で
在宅ワークで自分だけの自分に合った新たなキャリアを築くことです。

  • 喜びやありがとうが循環し、広がる仕事がしたい
  • 大事なものを大事にできる自分でいたい
  • おばあちゃんになっても笑顔で働きたい

ありたい自分でいるために、目標を叶えるために
「Webマーケティング」について、実践しながら学べる環境に飛び込みました。

このブログを書き始めたのは、その一歩として
ライティング力を身につけるためです。

当ブログでは、私と同じように

「教員になる道しか見えなかった」
「自分に合っていることが分からないまま進んでしまった」
「今の働き方が、正直つらい…」

そんな方に、

「先生だけが道じゃない」
「自分に合った働き方、キャリアは自分で築いていける」

そんな未来をお届けしたいと思っています。

私自身、教員という仕事は、やりがいも喜びもありましたし、
子どもたちの成長に関わることができる、とても素晴らしい仕事だと思っています。

でも、そこにしか選択肢がないと思い込んでいたことで、
倒れるまで無理を続けてしまいました。

もしあの時、「世の中にはもっとたくさんの可能性がある」と知っていたら、
違う選択ができていたのかもしれません。

だからこそ、今は教員一本のキャリアが当たり前だと思い、悩んでいる方へ、
教員以外にも新しい道があることを伝えたいと思っています。

私自身がその道を切り拓きながら、
在宅ワークという形で築く新しい働き方を発信していきます。

今までもたくさんの壁にぶつかってきましたが、
これからも、うまくいかないことや失敗することはあると思います。

その失敗や壁も含め、私のリアルな挑戦の記録をお届けしますので
是非またブログを覗きに来ていただけると嬉しいです。

過去の私のように悩む方へ、少しでも希望が届きますように!

最後まで読んでいただきありがとうございました。